さきほどもわたしは「鏡の上に立ったら違う感想になる」と言った。具体的に言えば、鏡の上に人が立ったら「上下逆さまになってる!」という感想が最初に出てくるであろう。 「鏡に映ると左右反対になる」というのは人が直立し、法線が水平であるような鏡に相対したときの限定的な感想である。
真の問題は「鏡に映る姿が左右反対であるのは何故か?」ではなく「鏡に映る姿を、われわれが左右反対だと認識するのはなぜか?」である。
これが同じ問題ではないことを理解するために次のような仮想的な例を考えよう。ヒトのオスは右手が極端に大きく、メスは左手が極端に大きかったとする。この大きさは手袋などでカバーできるようなものではなくシルエットに影響するレベルだとしよう。
「鏡の上に立った場合」「通常の直立した人間が水平方向に法線を持つ鏡に正対した場合」「雌雄で左右のバランスが極端に違うヒト型生物の場合」の認識を説明する方法は、心のなかの回転群操作を持ち出すことによって統一的に説明できる。
薄く2次元的に展開されている大脳皮質において回転がどのように扱われているかは興味深い話ではあるが、事実として、われわれは道で倒れている三角コーンを見たときに、即座にそれを回転させて立たせる方法を思い浮かべることができる。つまり、頭の中に回転群を模倣する働きがある。
どのような状況であっても、鏡の中の像に対して、どうやらわれわれは「自分がその像と同じ位置に立つためにどのような回転操作が必要か」を思い浮かべているらしい。
鏡の上に立った場合なら、それは逆立ちだし、通常の状況であれば、鏡の向こうに歩いて行って180度ターンするということである。しかし、雌雄で左右のバランスが異なる場合には --- その個体の性自認が明確である限り --- どのように回転+移動してもその像と自分を重ねることはできない。